京阪電気鉄道の誕生

明治30年代半ばの東京と大阪、時を同じくして京都・大阪間の鉄道を敷設せんという動きがあった。

 
東京では渋澤栄一、渡邊嘉一等が、大阪では村野山人、松本重太郎、田中源太郎等が発起人となり、計画の便宜を図る為、両者に依る畿内電気鉄道株式会社が創立された。この区間は省線と競合するから、私設鉄道法による開業はほぼ不可能であって、同輩である箕面有馬電気軌道、大阪電気軌道と同じく、内務省からの特許に依る軌道法による敷設の申請を行うものである。
 
阪神に遅れること7年、漸く特許が下り、京阪電気鉄道と名を変えた同社は、大阪府東区高麗橋東詰から大阪府北河内郡守口町、枚方町、京都府綴喜郡八幡町、久世郡淀町、紀伊郡伏見町を経て、京都市下京極五条大橋東詰を目指すことになる。しかし、当時の淀川は非常に脆く、明治18年の大水害では現在の沿線区域の大半が浸水し、新淀川などの治水工事を余儀無くされたが、当時の沿線は地盤も脆弱で、可住地域も限られていた上、軌道法に従った為に線路の大多数を道路に沿って敷設した為、紆余曲折の多いルートとなり、「カーブ式会社」と揶揄されたのは周知の通りである。用地選定、買収にも紆余曲折を重ねたのち、1910年4月にめでたく天満橋から五条塩小路間、全線開業を迎える。
 
この時、起点は高麗橋東詰より天満橋南詰に変更されているが、これは大阪市が高麗橋から今橋を経由して梅田へ向かう線路を敷設し、直通を行うという計画に依るもので、梅田では阪神と接続、乗り換えの便宜を図るというものであった。しかし、大阪市は計画途中で方向性を改め、市内中心部の輸送は市営交通が担い、その他の民間郊外電車は一切排除する、後々まで続く「市営モンロー主義」を盾に反故にし、また、郊外電車を軌道線に対応し得るよう改造する手間が京阪側の上層部に嫌われ、この計画は立ち消えとなった。これが市営モンロー主義と並ぶようにして京阪を悩ませる、市内中心部への乗り入れ計画の発端である。

 

新京阪の梅田乗り入れ計画

 その後、塩小路から五条大橋まで疎水の堤防を利用し、最終的に三条までの延長ルートが完成。また枚方にあったとある富豪の所有する、風光明媚で広大な土地を買収し、菖蒲池や庭園、小料理屋から菊人形小屋までをも含む香里遊園地も完成し、インターバンとして幾らか順調な道筋も見えてきたか…という頃、時代は大正へと変わり、京阪内ではある懸念が渦巻いていた。
 
淀川東岸を走る京阪に対し、淀川西岸を経由する計画線が、4つほど存在していたのだ。
 
中でも、当時の原敬首相を始めとする有力政治家らが所属していた立憲政友会出身の植場平、三谷軌秀らが発起人である阪京電気軌道が最有力とされていた。然し、時の鉄道院副総裁石丸重美の意向は予想に反し、経営上の都合から従来線の保護をしたいという京阪側の思惑や、その区域の電燈事業も京阪が行なっていることを鑑みて、1918年7月、12月に相次いで申請された、京阪本線野江から城北村内にて淀川を渡り、大山崎、桂、西院を経て四条大宮に至る京阪の出願線が認可された。この一件はまた別項にて詳しく記述する。石丸はこの認可に関して、狭軌での敷設を望んでいたようで、それは後々国有鉄道として買収、城東線を介して和歌山〜大阪〜京都と、国有鉄道の電化ルートとして考えていたと思われる。何れにせよ、標準軌での建設が決定となり、京阪間の新たなバイパス線としての期待は高まっていた。
 
1919年に大宮までの特許が下りるが、この際、石丸は付帯する条件として「将来輸送が逼迫するであろう野江〜天満橋間の救済の為、支線に関しては野江から分岐して、新たな始発駅を設置せよ」と回答している。
 
この線の大阪側ルートは種々検討されたが、京橋駅にて京阪と交差する城東線、此れの高架化工事が行われることを知ると、京阪側は工事費用570万円を負担し、高架化により生じる旧線跡の払い下げを申し出た。石丸始め鉄道省側も最初は憂慮していたものの、最終的に1920年に認可され、北区中野町から葉村町までのルートを確保するに至った。
 
ところが、その計画が世間に知られるや否や、先述の通り市内への郊外電車乗り入れを嫌う大阪市側の逆鱗に触れ、時の大阪府知事や、京阪社長が「市の自治権を蹂躙している」と、市会の非難・攻撃の的になった。運輸大臣や鉄道官僚の介入により、翌年には大阪市長の「市内電車線区間ハ高架線若シクハ地下線ニ依ル敷設ニ限リ此ヲ認ム」という条件付きで解決したが、鉄道省は他線区での電化事業、輸送力強化に苦心して、工事は遅々として進まなかった。また、この時点での計画ルートは桜ノ宮駅付近から城東線と並列することになり、不必要な競合は避けたいという思惑はあったものの、地上線として城東線沿いに用地は確保されていた。しかし、関東大震災による政府の復興予算に依って既存国有鉄道線の設備改善には十分な予算が回らず、工事の更なる延長が見込まれた事、京阪側も後述する京津電車の高規格化工事に先ずは取組むべきと決定した事から、此の線区の免許は後に返還されている。

新京阪線開通

1922年6月、淀川西岸支線の建設、運行主体として新京阪鉄道が発足する。未だ決まらない大阪中心部へのルートに悩む京阪・新京阪を見兼ねて、鉄道院に勤務していた五島慶太、前野芳造は「北大阪電気鉄道を買収してはどうか」と提案した。当時北大阪電気鉄道は十三〜淡路〜千里山間の路線と、淡路〜天神橋間の特許を保有しており、土地開発会社出自の会社で、霊園開発も行なっていたことから「葬儀電車」の異名を取っていた。

 

北大阪電気鉄道もまた予算面から大阪市中心部への乗り入れが困難で、免許こそ所有していたものの、予算削減の為、繋がりの強かった阪急(乗務員養成は阪急の教習所にて、車両の製造も阪急池田で行った)の十三駅での接続にて凌いでいた。そこで京阪は北大阪電気鉄道の株の過半数以上を取得し役員を京阪の重役と入れ替え、1923年に新京阪への譲渡と相成った。ところが前述の通り、北大阪電気鉄道は阪急との繋がりを重視していた為、宝塚・神戸方面で勢力を強める阪急の影響を懸念して、京阪は買収後真っ先に十三〜淡路間を廃止届けを提出し、異例の早さで線路敷を撤去している。その上で、従来の計画線と上新庄〜淡路間の新線、譲渡された免許で天神橋まで延伸し、とりあえず大阪側のターミナル駅とした。

 

 

天神橋駅はアメリカのインターバン、Pacific Electric Railwayの6th & Main Terminalのスタイルを模倣しており、地上7階建てのビルには新京阪の本社、新京阪マーケットなどが入居し、日本のターミナルビルの先駆的存在である(東武浅草駅の開業は1931年)。城東線跡地を流用した梅田乗り入れ計画は断念していたが、「万が一の為」、延伸に対応出来るように線路は地上一階に敷設された。また、この時同時に豊津から箕面までの免許も申請しているが、計画は進まず2年後に却下されている。1925年に天神橋〜淡路間で営業運転を開始、1928年には高槻町、そして西院の仮駅まで延伸し、超特急の運転が開始された。

 

京都横断紆余曲折

京阪電鉄は大正末期に京津電車と合併しており、交通の便宜上、何れかの手段で大阪から直通で京津電車の大津駅に達しておきたい思惑があった。当初は西京極から更に北上し、西大路四条から四条通を東へ進むルートで検討されていたが、直進すると八坂神社にぶつかる四条通ルートは採用には適さず、更なる検討の結果、比較的横断が容易で市の中心部を通過出来る五条通に沿うルートが選ばれた。とりあえずの終着駅として烏丸五条の位置に二面二線の駅が設定され、これが後の京阪大宮駅となる。

 

当初は高架線の乗り入れを目論んでいたが、近辺の地価は高騰し、京都市側からも難色を示されていたため、困難を極めた。折しも当時の日本では自動車が徐々に普及し、従来の狭隘な京都の道では交通に不便が生じるので、従来の京都市三大事業に加えて、京都市は新たな都市計画として五条通を始めとしたいくつかの通りを拡幅することを決定した。ところが、将来輸送が逼迫し自動車の走行に影響を及ぼすのを避ける為、京都市では市電の従来一部路線と、市内を環状に走行する路線を追加した京都市交通局高架電車線・通称「キョウトL」を建設していた。道路上故に市内各駅とのアクセスは悪く、大阪方面から市内へのルート確保の為、京阪間の鉄道との連絡を図る必要があった。此処で京都市は、市内への直通法を摸索する新京阪側に対し、道路の拡幅に際し必要な経費を負担すれば取り敢えず地上での建設を認める、但し将来に地下化すること、キョウトLと直通することを条件として打診した。少々痛い出費ではあったが、京都市中心部への乗り入れの為にそれを了承し、1929年4月に契約を締結した。

 

かくして1929年5月に直ちに着工され、1年10ヶ月の工事の後、1931年の3月に漸く五条大宮の新京阪五条駅まで開通するに至ったが、1930年には経営難による再建のため、新京阪は親会社である京阪に吸収合併されている。京都市内乗り入れの際に負担した五条通拡幅工事の諸経費はおよそ300万であるが、当時新京阪の抱えていた負債諸々は6000万円を超えていた。京阪和歌山支店を合同電気に売却、更には人員整理を行ったが所詮は焼け石に水で、昭和7年にはとうとう無配転落に陥った。

 

大宮までの地下線を清水五条まで延長させる計画も遅々として進まず、一連の出来事は名古屋延伸にまで影響するのだが、それはまだ先の話である。

 

 

 

 

京阪再建と名阪急行鉄道の誕生

 

新京阪線の主力であるP-6が出揃う頃、莫大な資金を投じて建設した高規格路線をどのように生かすか、京阪では幾度となく会議が開かれた。その中で最も理に適い利を有するとされたのが、名古屋までの延長線建設である。五条烏丸から山科を経て従来検討されて居た大津まで、そこから更に草津、八日市、石榑峠を隧道で突き抜け三重県の菰野町に出、木曽、長良両川を超え佐屋、名古屋に至る地方鉄道法に則った100km強の区間で、新京阪線と同じく1435mm軌間、架線電圧直流1500Vにコンパウンド方式が採用された。

 

然し、先項で幾度となく述べたように、4500万円の工費に対し概算1億円の負債を抱える京阪単体での敷設は無論不可能で、名古屋急行電鉄株式会社を設立し、発起人として名古屋電力、大同電力、愛知電気鉄道を始めとする名古屋の財界人から京都商工会議所会頭、京都瓦斯社長まで、ありとあらゆる人物の名が並んだ。名古屋・関西間の交通は旧態依然とした鉄道省東海道線、関西線のみであり、時の電鉄ブームも相まって名阪間の鉄道の出願は頻々と起ったが、既存の施設を利用すること、電力供給の安定していること等、利権的、投機的な他の計画線と比較して幾らか現実的であることから、1929年9月に認可の指令が下った。 

 

この頃から、新京阪線、名古屋急行線に関係する京阪側の威は弱まり、寧ろ他の大株主が台頭し始めた。太田光煕率いる京阪側も、経営の膿を出し切る為にネックである天神橋~名古屋間の系統は切り離すのが宜しいと判断され、1930年1月の臨時総会にて、幹部全員の一致を以て新京阪、名古屋急行線の独立が決定し、これらの区間を管轄する名阪急行鉄道株式会社が設立された。略称「名急」からも、完全に独立し、関西資本に留まらない(寧ろ名古屋資本に乗っ取られる間際か)ことがうかがえる。

 

総会の直後に着工式が行われ、難所である石榑隧道を中心に工事が進められた。其の外にも大津~山科間や、木曽・長良両川を越える橋梁を、省線をも凌ぐ高規格線路で敷設するとあって工事は困難を極めたが、苦汁を舐めた幾夜が過ぎた1934年4月、目出度く名急大宮~清水五条~大津~名古屋間が全通し、午前8時きっかりに双方から華々しい装飾を施した一番電車が走り出した。名阪間を快走する最優等「高速」には新たに21フィート級の超大型流線型電車P-7:デイ1000形が導入された。

 

華々しいスタートを切った様に思えたが、今後は中間駅着発の需要確保やそれに対応した沿線の人口確保中心部への乗り入れを果たせなかった天神橋駅と名急名古屋駅、両ターミナル駅の立地に頭を悩まされることになる。

 

 

 

 

戦前期の躍進

名急は沿線の人口が他線と比べて希薄な分、沿線の名勝として知られる嵐山、永源寺への輸送戦略を練り、観光収入で相殺したい思惑があった。嵐山には、京都電燈から譲渡された免許に依って建設された嵐山支線があり、平日こそ木造小型車であるP-4、P-5が運用に就いて居たが、土休日には天神橋発の行楽急行が運転され、大阪市電の連絡切符を発売するなど、大阪市電の要衝でこそあれど梅田や難波から程遠い立地を逆手にとっての施策も見られた。近江の奥座敷と銘打たれた永源寺は、紅葉の名所、また温泉地として売り出され、直営の旅館を建設するなど涙ぐましい努力も見られたが、計画ほどの収穫は得られなかった。斯様な沿線行楽地の開発、営業の為、名急観光部が立ち上げられ、梅田、難波、天神橋、京都、大津(駅窓口にて切符の販売のみ)、名古屋に営業局を設置、旅行の斡旋と行楽地への営業案内が行われた。

 

淀川西岸に敷設された新京阪線区間の沿線は未だ長閑な田園地帯であって、京阪間運用に就く大量に製造されたP-6を活用する為にも、沿線の開発を行い、需要を確保する必要があった。幸いして省線のやや南を走り、富田町、茨木町、高槻町等の中心部に近かったこともあり、スピード、頻度、運賃の面に於いて大いに優って居たと言われる。然し、新たな層として、新興サラリーマン層を引き込む必要もあり、子会社扱いとして名急土地開発を設立。上牧桜井ノ駅駅~大山崎駅間に水無瀬駅を設置し、水無瀬神宮、楠公親子の別れの場として名高い桜井駅跡とやや距離を置きながら、駅を中心に放射状に広がる水無瀬住宅地を開発した。地下水が豊富で自然も近いとあって次第に住宅は増え始め、それを標榜して更に京都寄りの駅周辺でも他の土地開発業者が開発を進めるなど、職住近接と迄は行かずとも、名急を介する人の流れが生まれた。

 

 

 

 

 

焼け野原から生まれ変われ

順調に乗客も増加し、漸く安定の兆しが見え始めたかと思われた矢先に始まった日中戦争は太平洋戦争に移り、不要不急線指定された全国の割合に閑散とした鉄道路線は複線が単線に、単線が営業休止と云う様に、線路が一線剥がされてしまった。名急嵐山線も其の例に漏れず、従来から複線の片方のみを使用していた同線も1941年に正式に単線化された。

 

運転本数も削減され、滋賀方面には疎開者を乗せた臨時列車が双方から走り、町全体を鬱屈とした空気が覆っていた。

 

その空気を破ったのは、B29であった。

終戦までに名古屋、桑名、京都、大阪が幾度となく爆撃され、街に留まらず駅、車庫、変電所、架線設備、線路、そして車両までが破壊された。特に車両が罹災したのは大きい損失で、戦後の車両計画は此処を軸にして進む事になる。

 

当初は、何とか走行する車輌を掻き集め、片肺運転も何のそので遣り繰りした。無論、戦前以上の水準、さらにそれ以上まで膨れ上がる輸送量となり、翌年には運輸省鉄道軌道統制会から、モハ63形の割当を20輌、受ける事を決定した。各製造工場にて、国鉄用の車輌の間を縫って製造される事、又従来のP−6形に極力近付けた手の込んだ内装を指定した事から、落成が1948年度以降と遅れた。此れに依り、必要最低限にも満たない数の車輌で運用し、終戦後数年間に渡って名阪間の交通に支障を及ぼしたのは特筆す可き事であり、新聞各紙や国会でも取り上げられる程の問題となった。然し、其れは名急が名阪間に於いて一早い復旧と輸送改善を願われる様な求心力を持っている事を、逆説的に示したのだった。