別学は排除されるのか?

 我らが熊高にもそのニュースが飛び込んで来た。埼玉県の公立高校を十数校廃止、統合すると、県教委が検討しているらしい。見出しにもある通り、「男女別学の伝統校の共学化」に関してはどうも埼玉新聞が尾鰭をつけて報じているだけのような気もするが、確かに県下において8つも別学の高校が存在するのは、このご時世貴重だ。 

 

 このニュース自体は少し前のものであるが、自由と自治、質実剛健、文武両道の熊高を愛する一人の学生として、ずっと心の中の一角を占めていたモヤモヤをこの際清算してしまおうと思い、吐き出してみる事にする。 

 

 

 

 

 公立別学の共学化は、実は然程珍しい訳でもない。男女別学の公立高校は、所謂旧制中学と高等女学校が前身である事が大半だ。我らが熊高は旧制二中、対する熊女が熊谷高等女学校であったのは生徒であれば何となく知っているだろう。戦後の学制改革により、GHQの提案した「高校三原則」の一つである「男女共学」に則り、1948年の新制高校設置の際には国公立の別学校の大半が男女共学となっている。ところが東日本の一部ではそのまま別学のまま残される高校も見られた。

 東京都では1950年に男女共学化が行われた。当時墨田区にある都立某高に通っていた祖父は「女子と話すのまぢこゎぃ。。。」と思っていたそうな。近年では福島や宮城で共学化、統合が見られた。

宮城では、仙台二高同窓会によるデモや10万人分の署名が知事に渡されるなど、現役OB問わず必死の活動が見られ、県内の生徒や保護者、教員へのアンケートでも反対派の方が優勢だったが、それでも2010年に全ての高校が共学化された。

 

 

 現在公立別学が残されているのは群馬、栃木、そして埼玉県である。何れの県でも、幾度と無く共学化を巡る議論が為されてきた。埼玉では別学維持の署名が27万人分集まり、県教委も「当面は」維持するという発言をしていた。そして今日に至る訳だ。

 

 

 共学化を求める謎の機関?集団?は一定数存在する。教育誌にそういった趣旨の文を寄稿したり、各教育委員会に提言するのを生業としているらしい。彼ら彼女らの発言を搔い摘んで述べれば「性差による入学制限は差別だ」「税金の使い道として好ましくない」というのが主だったところだろう。我々を性差別者とでも言いたいのかは知らないが、そうやって各地の公私問わず高校の共学化を推し進めているのだ。熊谷高校は性差別者育成学校では無いし、予算削減を図るなら、定員割れしている高校が集まる区域があることに目を向けるべきだ。

 

 

 

 言いたい事は何となく分かる。筋が通っているのかもしれない。

 

 

 

 しかし、一熊高生として、仮にもその公立男子校に2年間は籍を置いた(留年の危機ッ!!ではあるが)者として、どうしても反論しておきたい。例えば、脳科学研究の一つとして、男女の学習能力や発達にはいくらかの差があることが明らかになっている(文中2−2−2辺りが参考になる)。今日に於いても別学の進学校に一定の人気があるのは、その伝統や校風だけでなく、根底としてそういった科学的に有意である学習的利点が存在するからに他ならない。極論と言えば其れまでだが、共学でそういったどちらかの性に配慮した指導法(とはいえ、教員はこういうものを感覚的に身につけている節はあるが)を採用すれば、それは他方の性が効率良く学習する事を阻害しかねないのではないか?

それらに則って言えば、中高一貫の別学というのは、それらを上手く利用し、よりよい指導、キャリア教育を行う事が出来るのかもしれない。なるほど、私立のそういう学校との差はそこか。

 

 学級においてはこうも言えるだろう。我々が抱きがちな学級構造のイメージとして、「真面目で何にでも率先して取組む女子生徒」「それらに引っ張られるだけの男子生徒」という、伝統的なステレオタイプがある。無論例外たる生徒の存在も認めるとしても、「ちょっと男子〜〜!!!」という文化が今も昔も存在するのはまぎれも無い事実である。胸に手を当てて考えてほしい。自分が共学の学校にいた時、そんな事は無かったか?自分は当事者ではなかったか? それらの是非は存在しない、ある意味で自然な事だと思っているが、一見「平等」である共学は、そういったステレオタイプを生徒に植え付ける温床ではないかと思う。男女別の番号表も然り。応援団とチアリーダー、の様な棲み分けも然り。思春期に何も考えず共存を試みても、逆に生徒は不用意な男女間の潜在的な溝を生み出してしまう恐れがある。

 

 その点で言えば、共学では、それぞれ似通った性質を持った生徒が集まる訳だから、先導的な役割、力仕事といった概念すらほぼ芽生えず、生徒間の協力を以て様々な課題を解決する。そこでは「性差によって意味も無く何らかの活動を制限、区分される」事がおかしいと知り、性差伝統的なステレオタイプを捨てた、活動に於いてフェアな立場を貫きリーダーシップをも発揮出来る生徒が育つのだと私は思う。無論共学であってもその認識さえ持てば上記のような価値観を持ち、決して共学がそのような生徒ばかり輩出すると云う訳ではない。

 

 

 

 ところが、一部の世論では反対に「別学こそがステレオタイプを植え付ける根源だ」とも言われる。そうなん?

 

 

 恐らく、前時代的な別学への認識を持っているのだろう。我々だって家庭科の勉強をするし、熊女だって情報の授業がある。時代に合わせて、別学も脱皮し、新たな生徒像の一面を構成しようとしているのだ。しかし、それはあくまでも一面であり、それぞれの学校が長年受け継いで来た伝統、校風も生徒を構成する一部である。例えば我々は質実剛健・自由と自治・文武両道の3つを根幹とし、時代に合わせてあるべき形の学生として熊高を飛び立つ。伝統行事には毎回開催には生徒の決を採り、精神と身体を鍛え抜く行為自体に男女関わり無く、「自治」の難しさや批判的な目と建設的な議論の大切さを知る貴重な3年間が奪われるかもしれないこの状況は、何とも空恐ろしい。

 

 

 県教委はこうも言う。「地域、県民の期待や社会のニーズに対応した特色ある学校を設置」し、活性化や特色化を図ると。県教委は何故熊高に校則が存在しないのかご存じか?20年前の埼玉県には公立高進学者の2/5に満たなかった私立高進学者も、現在では半分に及ぶほど増加している。学力以外の様々な事を、生徒が自発的に吸収し成長出来る高校が幾つもあるのに、それを潰して何を作るつもりなのか。

 

 

 我々学生は、少なくとも今目の前に広がる現実と向き合い、何処へ一歩を踏み出すべきか、よく考える必要がある。上記の冗長で中身の無い文章はあくまで私の意見であり、必ずしもこうならなければいけない、と云う訳ではない。もしこの文を読んだ生徒諸君がいたら、是非この問題を吟味して、自が意見としてしっかり心の内に抱いて欲しい。もし間違っていると思ったなら、声を上げて議論するべきだ。これは我々だけでなくOBや、未だ見ぬ後輩にも関わる由々しき問題である。此の一稿が問題提起として、たくさんの学生に読んで頂ければ幸いであるし、この情報は共有して頂きたい。

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