百鬼園主人の一両御殿

阿房御殿の竣工 内田百閒

予てより待望んで居た百鬼園主人の新たなる御殿が竣工したので、一つ御目に掛度い。

 

読者諸君を紙上にて我が立派なる御殿を案内せんとして、今正にその新居内に構える書斎の、小さな机に向かって居る。

 

敬愛なるヒマラヤ山系氏は、御殿を見るなり「はあ、すごいですね」と云い、玄関から上がって行って仕舞った。今迄の家は三畳御殿の名を拝した極小さな家で在ったが、今度はもっと狭い。そして部屋の数も減った。然し、私は満足して居る。其の、私が満足する所以に就て、事細かに、原稿の許す限り、解説する。

 

さて、此の御殿の出入り口は差し当たって四つ、其の横っ腹に開いて居いたが、便宜上、其の内の二つは塞いで仕舞った。鰻の寝床を地で行くような細長い家で、各々の部屋も長屋の如く縦列に並んで居る。玄関から、物置、便所、洗面台、シャワの設備、台所、書斎、こひの居室、自室、そして居間である。こひの居室から居間までは地続きで、此の三室は昔懐かしき三畳間にした。書斎を洋間として、本棚を幾つか並べ、机上の目に付く所に、「志道山人」の額を掲げた。

 

此の家の難点は、台所が遠い事である。此の通り部屋が縦列に並ぶ我が御殿では、台所で完成された料理の類は、全て殆ど反対側にある様な台所から居間まで運ばれて来る。お酒は其れが必要になる度に台所に使わせるのが申し訳ないから、居間の片隅に一升瓶を三本だけ入れる箱を置いた。此れは己が悪酔を戒める為の物であり、山系君も「まあ、いいでしょう」と、判った様な、判っていない様な顔をして居る。

 

先週も、何の原稿なのか覚えて居ないけれど、兎に角私に原稿の催促に来た山系を一献付き合わせた時も、台所が遠くて肴を待って居ても埒があかないから、申し訳ないけれどまとめて持って来る様にと、郵便鳩山系を向こうに放った。狭い台所で、大して背丈も無い身体を更に縮めて、頻りに用件を伝えて居るのが見える。

 

そして、何より百鬼園主人御自慢であるのは、大型ガラスの戸の向こうに広がる屋根付のベランダである。此れは向うが提案したもので、私は中庸で目立たぬ物を好むから、普段なら斯様な提案には首を縦に振らないのだが、少しく気分が浮き足立って居たのか、或いは宴席の戯言だったのかは知らないけれど、どうやら許可したらしい。結果的には善かったと思うので、まあ、善いのであろう。

 

漸くの事で案内を終え、居間に入る。ちゃぶ台の、いつも私が坐る向かい側に、我が物顔で山系君が伸びて居た。

「貴君」

「やれますか」

「始めるかどうかは主人の私が決める事であって、決して客人が急かしたり、催促するものではない」

 

ぼうっとした目でこちらを見る。判っていないのかも知れない。然し、此方もそろそろ喉が乾くので、到頭始める事にした。今宵の肴は蒲鉾に山葵醤油をさっと掛けたのと、鯛の煮染、そして心地好い揺れと、レールの継ぎ目を叩く美しいワルツのリズムだ。自慢のベランダに目をやると、後尾灯に照らされて、二本の白い筋が遠くに、やがて何処かで一本になるのではと訝しむ程続いて居るのが見える。

 

我が「一両御殿」、マヤ38100は、東海道線を国府津まで走る普通列車の最後尾に繋がれて、今は恐らく大船を出た辺りである。国府津で向きを其の儘にして、展望デッキからの視界を塞ぐかの様に電気機関車が連結され、今度は東京に戻る。東京で山系君を下ろして、我々は其の他の客車と共に品川へ運ばれ、御殿は専用の夜間電源に接続された後、好い加減に片付けて眠りに落ちる。明くる朝も何れかの湘南列車の最後尾に連結され、飽きたら東北線を宇都宮迄、高崎線は高崎、いや、碓氷峠を越え乍らの午飯も甚だ美味いだろう。兎に角、山手線の駅を始発点とする幹線上の全てが我が家であって、一両御殿は其の中の屋敷に過ぎない。

 

恐らく日本一の豪邸であろう。

 

或る日御馴染みの見送亭夢袋氏が来て、「どうも、此れでは何時御見送りに参上すれば良いか判りませんな」と頭を掻いていた。一両御殿に揺られて居るのは則ち自宅に横になって居る訳で、決して阿房列車では無い。強いて云えば阿房生活であろう。交通の手段たる鉄道車両に居を構えるなど、阿房のほか無い。然し、其れこそ「人の思惑に調子を合わせて」居るだけで、此方も提案した国鉄も大真面目である。

 

若し、再び阿房列車に乗らんという感情が湧き起これば、私は品川の構内通路を歩いて国電品川駅の歩廊に立ち、東京駅か上野駅で山系君と合流し、又一等車か、二等車か、切符の具合に依って変わるけれど、兎に角特別急行列車或は急行列車に乗り込んで、曾遊の地である横手か八代に赴きたい。用事は無いけれど汽車に乗るのだから、名のある列車に乗りたい。繰り返す様だが、一両御殿は飽くまでも私の邸宅である。然し、目の中に入れて走らせても痛く無い様な鉄道に坐り、酒を飲み、寝床を敷く、斯様な幸せを私は他に知らない。三軸ボギーの台車はずっと安定して居るけれど、時折分岐を踏むとお酒の水面がぴくっと揺れる事がある。そうして、惰性の宴席に一種の緊張が走って、私はまた外を見、後尾灯が照らす軌道の行く先を眺める。

 

 

 

 

回想一両御殿  平山三郎

何時の阿房列車か忘れたが、例の如く東海道線の特別急行の一等車室に腰掛けて、こんな会話を交わしたのを覚えている。

 

「米国には Private car と云うのがあって、個人で車両を所有して好きな列車に連結し、旅行や会談をして居るそうだ、此れ阿房列車の極致也や」

「欲しいのですか」

「貰えるのなら幾らでも欲しいね」

 

──私が何と返答したかは覚えてないけれど、いつもと同じ様に「はあ」「そうですね」と返したと思うが、兎にも角にも此の話題はこれきりだった。

 

その後暫くして、長年懇意にして居る国鉄の人間と酒を飲む機会があった。若い頃は皆等しく平の新人であったのが、今や皆お尻に「長」だの「官」だのが付く様な、随分偉い人になっていて、かと云って私が遠慮するでも無く、賑やかしく酒を酌み交わして居た時に、お酒の勢いでつい喋ってしまった。

 

「百閒先生に客車をプレゼントして、其処に住まわせてあげたいなあ」

 

──夢袋氏こと中村さんがそうだ、そうだ、と囃し立てると、周りのお偉方達も

 

「うん、いいかも知れないなあ」

「一寸提案してみようか」

 

と、酔った勢いで案が持ち帰られてしまった。

 

此方も最初は冗談だと思っていたけれど、車両課の友人から、先の改正で運用を外れた一等展望車が用途廃止扱いで高砂工場に留置されて居て、その中の一両を整備しようか、という電話が来た。流石に私も卒倒し掛けたが、相次いで予算の折り合いが付きそう、数ヶ月後なら大宮工場が手空きになる等、夢想を現実たらしめる連絡が相次いで飛んで来て、取り敢えず三畳御殿に幹部揃って参上する事になった。 

 

我らが主人は、

 

「ふ、ふ、ふ」

 

と不気味に笑って

 

「斯様に仰る様であれば、謹んでお受けいたしましょう」

 

謹んだ様には見えない程にこにことしていた。

 

其処からが忙しかった。漱石先生の木曜会の如く、毎週土曜日の夕方には関係者と私で百鬼園邸に伺い、細々と新居の仕様を取り決めた。又ある時には、貨物列車で兵庫からはるばる大宮にやってきたスイテ38を見学したいと言い出し、懐かしき一等車と久闊を叙するのかと思いきや、工場の彼方此方に駆けて行っては担当者に何やら尋ねて、何時まで経っても埒があかない。

 

 

半年程の改造工事を終えて、到頭一両御殿こと、マヤ38100が竣工し、大宮工場試運転線にその艶々した身体を現した。100番は則ち百閒である。外装は往年の偲ぶ茶色に一等帯を巻き、帯上には「業務用」と書かれた。出入口横の、当時は「特急」の札を挿した所には「日没閉扉」と書かれた札が新たに輝き、職員の目に付き易い所には「品川操車場常備」と書かれた。

 

所属区で一悶着あって、当初は品川客車区にする積りが、岡山鉄道管理局の甘木君から電話があって、「岡山ゆかりの先生の車両なのだから、此処は一つ岡山客車区に所属させてはどうか」と打診された。確かにそうだけれど、先ずはと思って先生に相談すると、

 

「折角だし、そうしようか」

 

と云われた。日頃より岡山への郷愁と、実際現在の岡山の街とのギャップに苦しめられて居る先生が、少し懐かしい様な表情であった。

 

「一両御殿」の出発式、一番列車は沼津行き普通列車であった。編成を組む品川客車区で細やかな式が行われて、着物の上に制帽を被る先生が、この時ばかりは破顔で写真に写って居る。

 

先生は毎日一両御殿の書斎で原稿を書き、東海道線や東北線の近郊区間を往復して居られる時は私が直接御宅に伺い、東北や山陰をのんびり走って居られる時は鉄道郵便か、廃止以後は駅長に預けて速達郵便で手元に届く。

 

国鉄民営化が取り沙汰され、浪費っぷりや傲慢さが問題になると、一両御殿は帯を塗り潰して山陰本線の山奥の駅に、用途廃止の客車と共に連結し、数ヶ月経つと移動して、又別の駅の客車のお相手をして息を潜めた。ついに民営化されると、再び帯を巻き、大きな顔をして走り出した。只、昭和の世が終わる頃には客車列車は殆ど消滅し、深夜に御殿だけが機関車に牽かれて移動して、あちこちの駅に暫くの間停泊し、暫くすると又移動…と云う風に変わった。流行りのクルーズトレインよりも贅沢だ。

 

時々便りが届く。

 

スマートフォンを決して用いず、鉛筆で書かれたカタカナの箇条書きの様な葉書には、よくまあ飽きないなと思いながらも、何でも無い様な日常が綴られ、其れを読む度に、心が温まる気がする。

 

こうして、此の国に鉄路が伸びる限り、百閒先生は何処迄も、何時迄も、行く。